マリエルがパン屋に戻ると、ヒューが所在無げに店番をしている。
「ヒュー、ロイドさんは?」
「さっきでかけたよ。……お嬢さんはどうした?」
「キャシー?……えっと、ううん、知らない」
 ぎこちなく答えるマリエル。その時、ヘイゼルが息せき切って駆け込んでくる。
「マリエル!ヒュー!たいへん、たいへんなのっ!」
「あっ、ヘ、ヘイゼル」
「どうしたんだ?」
「うちの前に、キャシーのバスケットが落ちていて、その中にこの手紙が……」
 ひったくって読むヒュー。その肩が怒りで震える。
「最高のパンを食わしてみろだぁ?……あの野郎!」
 出ていこうとするヒューを止めるヘイゼル。
「どこいくの、ヒュー!」
「お嬢さんを取り戻してくるのに決まってるだろ」
「やめて。もし失敗したらキャシーはどうなるの?」
「俺は、そんなドジはふまねえ」
「お願いだから、キャシーを危険にさらすようなことはしないで」
「し、しかし……じゃあ、どうするんだ」
「向こうの要求を呑みましょう」
「そんな……お嬢さんが人質になってるってのに、のんびりパンなんか作ってる場合じゃ……」
「……パンなんか?」
 急に厳しい口調になるヘイゼル。
「ヒューにとってパン造りはその程度のもの?命はかけられない?」
 さしものヒューも思わずひるむ。
「で、でもよ……俺には、まだそんな自信がねぇ」
「それでも作らなくちゃ。これにはキャシーの命がかかってるんですもの」
「わ、わかった……とにかく、やってみる」
      ◆   ◆   ◆
「……あとは、焼きあがるのを待つだけだ」
 ハーブ園の良質のシナモンと、マリエルが取ってきた『太陽のりんご』。
それらを使ったアップルシナモンブレッドは、究極の一品になるはずだった。
「きっと、最高のパンになるね」
「だといいがな……そういえば、ヘイゼルお嬢さんは?」
「あ、あー、どうしたのかなー」
 まさか作戦のためにクインシーを探しにいってるとは言えない。マリエルが口ごもっていると、
乱暴にドアが開けてキャシーが駆け込んでくる。
「マ、マリエル!」
「あ、あれ?キャシー……」
「ヘイゼルが捕まって人質に取られちゃったのっ」
 ヒューを見るキャシー。
「放してほしければ、ヒューを呼んでこいって……」
「どういうことなんだ?人質になっていたのはお嬢さんじゃなかったのかい?」
「ご、ごめんなさい!あたしたち、ヒューにこの街に居てほしかったの。
だから、あの人にヒューを追うのをやめてもらおうとして……」
「……なんてこった」
「……ごめんね、ヒュー」
「いや……その気持ちは涙が出るほどありがてえ。だがこれ以上、お嬢さんたちを巻き込むわけにはいかねえ」
「待ってよ、ヒュー」
「ここから先は、俺たちの流儀でケリをつける」
      ◆   ◆   ◆
「へへっ、逃げ出さないだけの根性はあったようだな」
 そう言ってかたわらのヘイゼルを盾にするクインシー。
「ヒュー……」
「すまなかったな、いま助けてやるからな」
「……シナモンアップルブレッドは完成したの?」
 意外な言葉に少々うろたえるヒュー。
「い、いや……途中で放り出してきちまったが……」
「……そう」
 うなだれるヘイゼルを見て、クインシーが笑う。
「このお嬢ちゃんはな、おまえさんがいつかきっと、最高のパンを作る職人になるって言い張りやがるのよ」
「なんだって、……俺が?」
「そこで俺は言ってやったのさ。しょせん、てめえも俺も同じ穴のムジナ、裏街道で生きていくしかねえ」
「そんなこと、ないよっ!」
 後を追ってきたマリエルたちが駆け寄ってくる。
「そうだよ、あたしたちみんな、ヒューのことが大スキだもん。いつまでもこの街に居てほしいのっ」
「……お嬢さんたち……」
「ふん、ずいぶんとうまく取りいったもんだな」
「……てめえの言いてえことはそれだけか」
「最高のパンだって?笑わせやがる。こんなちっぽけな街のパン屋なんざ、しょせんクズみてえなもんだ」
「きさま……俺のことはともかく、親方をクズ呼ばわりするのは許せねえ。いまここでケリをつけてやる」
「やっとその気になったか。そうこなくっちゃな」
 クインシーは懐から取り出した爆弾に点火し、ヒューは短剣を構える。
「やめて、やめてよヒュー!」
「すまねえな、お嬢さん。もう、止まらねえ」
「そういうこった。いくぜ!」
 その時、ヘイゼルがクインシーに体当たりする。
「うわ、な、なにしやがるっ」
 よろけるクインシー。爆弾が放り出され、ヘイゼルの目の前に落ちようとする。
目をつぶるヘイゼル。その直前にマリエルがキャッチ──しようとしてお手玉する。
「わっ、わわわっ」
 ポンと放り出されてしまい、爆弾はキャシーの手に。
「あ、あわわっ」
「は、はやく火を消せっ!」
「えっ、ど、どれっ?」
「間に合わねえっ、遠くに投げるんだっ!」
「う、うんっ。え、えいっ!」
 思いっきり投げたが、爆弾は弱々しい放物線を描く。
「バ、バカやろうっ、近すぎるっ!」
 へろへろと飛んだ爆弾は、ちょうどやってきたロイドの手にすっぽりと収まる。叫ぶヒュー。
「あぶねえ、親方!」
 いましも燃え尽きようとする導火線。だがロイドは落ち着いて導火線をつまみ、火を消してしまう。
安堵のあまり腰が抜けたようになってしまう一同。
「どうやら、間に合ったようですね」
「……お、オヤジ、どうしてここに?」
「パンが焼きあがっていたので、試食していただこうと思いましてね」
 そう言ってクインシーにパンを差し出すロイド。
「どうです?おひとつ」
 妙な迫力に、ついパンを受け取ってしまうクインシー。
「どうですか?」
「……うめえ」
「それはよかった」
 クインシーは夢中でパンをほおばる。
「極上のリンゴの甘さを上品なシナモンが引きたててやがる。かといってアップルパイじゃねえ。
柔らかなパンとわずかにサクっとしたリンゴの歯ざわりとが絶妙なバランスを保っている。
……こんなパンは初めてだ」
「それはあそこに居る、うちの見習いが作ったものなんですよ」
 驚きの表情でヒューを見るクインシー。
「なんだって?……てめえが、これを?」
「これだけの才能を、みすみす潰してしまうのはもったいない。あなたもそうは思いませんか?」
「だ、だからって、あいつを見逃すわけにはいかねぇ」
「そこをなんとか。ここは私の顔を立てて貰えませんか」
「冗談じゃねぇ。たかがパン屋の親父の顔なんざ立てたところで、いったいなにが……」
 そこまで言ったところで、ふと気がついたようにロイドの顔をまじまじと見る。
「そういえば、あんたのその顔、どこかで……」
 ハッと顔色を変えるクインシー。
「あ、あんた……もしかして……」
「どうかしましたか?」
 ロイドはあいかわらずニコニコと笑っているが、クインシーは脂汗をかきながらギクシャクと立ち上がる。
「い、いや……たしかにここはあんたの顔を立てといた方がよさそうだ」
「ありがとうございます。いちおう話は通しておきましたから、心配は無用ですよ」
「……そりゃありがてぇ。しかし、なんだってあんたみたいな人がこんなちっぽけな街で……」
 続けようとする言葉を、ロイドはやんわりと制止する。
「そう。私はそのちっぽけな街の、ただのしがないパン職人ですよ」