「やっほー、キャシー」
 数日後、マリエルがパン屋を訪れると、店番をしていたキャシーが迎えてくれる。
「あ、マリエルいらっしゃい」
「……ヒューはどんな感じ?」
 キャシーが黙って指差した店の奥から、ヒューとロイドの話し声が聞こえてくる。
「チーズブレッドのチーズはかけて焼くだけじゃだめだ。サイコロに切って、生地に混ぜ込むべきじゃないのか」
「具の量でごまかすなんて邪道です。あくまでパンの味で勝負するべきでしょう」
 言い争ってるようにも聞こえるが、どうやら美味しいパンについての議論を戦わせているらしい。
「ずっとあんな調子。ヒューってスジはいいんだけど、オヤジ以上にこだわるタイプみたい」
「でも、うまくやってるみたいだね」
 その時、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい、ま……せ」
 入ってきた客を見て思わず息を呑むキャシー。
いかにも凶悪そうな面構えをした、ゴリラのような体躯のその大男は、じろりと店内を見まわし、棚を物色した。
「チョコレートロールを……そうだな、十個ばかり」
「はっ、はい!」
 キャシーがカウンターに置いたトレイに腕を伸ばし、つまんだチョコロールをひとかじりして呟く大男。
「……甘くねえ」
「う、うちのチョコロールは甘さ控えめなんですぅ」
「寝言をほざくんじゃねぇ!」
 ドスの効いた声で一括されて、キャシーとマリエルは思わず縮み上がる。
「甘くねえチョコロールがあるけぇ!」
「で、でも……」
 オロオロするキャシー。助けを求めて店の奥を見ると、黒ずくめの服にエプロンがけのヒューが顔を出す。
「どうしたい、お嬢さん?」
「あっ、ヒュー」
 ヒューの後ろに隠れるキャシー。ヒューは大男を見て表情をこわばらせる。
「……クインシー“ザ・ボマー”」
 一方の大男もヒューを見てサッと緊張をはらせる。
「てめえっ、“スティンガー”ヒュー!」
 ふところに手を入れた大男を鋭い声が制する。
「よしな。この距離なら俺だ」
 魔法のように現れた短剣が、いつのまにかヒューの右手に握られている。
大男はその針のように細い刀身をしばらく見つめていたが、やがて懐から手を抜いた。
「へっ……まさかこんなとこに居やがったとはな」
「……俺を追ってきたのか」
 ヒューの手からすでに短剣は消えていたが、その眼光は鋭いままだ。それを受けて大男は肩をすくめた。
「まあな。この街には腹ごしらえに寄っただけだが」
 そう言ってぐるりと店内を見渡す。
「……てめえがここの職人か」
「まだ見習いだがな」
「じゃあ聞くが、こいつはなんだ。こんな甘くねぇチョコロールがあってたまるか」
「そいつは生地に練りこむのに、カカオ豆をすりつぶして練ったやつを使ってるんだ。
チョコの風味は損なわずに甘みを抑えられる」
「抑えるんじゃねぇ!」
 大男の吠え声にマリエルたちはまた身を縮める。
「なに上品ぶったこと言ってやがる。チョコロールなんて甘くてなんぼだろうがよ!
チョコたっぷりのパンをほおばる幸せを俺から奪うんじゃねぇ」
「味のわからねぇヤツだな。きさまにゃ豚のエサがお似合いだぜ」
「ぬかしやがったな。……てめえとは、いずれオトシマエをつけなきゃいけねえと思ってたんだ」
「よしやがれ。俺はもう足を洗ったんだ」
「ほざくな。しょせん俺たちゃ裏街道の住人だ。カタギの人間に迷惑かけることになっても知らないぜ」
 その言葉にヒューの顔色が変わる。
「……どういう意味だ?」
「とにかく逃げるんじゃねえぜ、“スティンガー”」
 そう言い捨てて、クインシーは店から出て行った。
      ◆   ◆   ◆
「ヒュー……」
 恐る恐る声をかけるキャシー。唇を噛んでうつむいていたヒューだが、振り切るように顔を上げる。
「どうやら、ここまでのようだ。これ以上ここに居ると、親方やお嬢さんに迷惑がかかってしまう」
「どういうこと?」
「アイツが狙っているのは俺ひとり。俺がこの街を出ていきさえすればオールオッケーだ」
「そんなっ……うちの仕事はどうするの?せっかくうまくいってるのに、やめちゃうの?」
 懸命に引きとめようとするキャシーとマリエル。だがヒューは寂しそうに首を横に振る。
「……ありがとうよ。その気持ちだけで充分さ」
 ふと顔を上げるヒュー。いつのまにかやってきていたロイドと目があう。
「親方……」
「もう、決めたのですか?」
「……すまねえ、さんざん世話になっときながら」
 頭を下げるヒューに、ロイドは小さくため息をつく。
「……しかたありませんね」
「そんなっ……オヤジも止めておくれよっ」
「いいんだよお嬢さん。これが一番いい方法なんだ」
「そんなのないっ。ヒューのバカッ、オヤジのバカッ!」
 駆け出して店から出ていってしまうキャシー。
「あっ、キャシー……」
マリエルは振り返るが、ヒューは首を振るばかり。
「ところで、あなたの決心はわかりましたが、こちらにも都合というものがあります」
「あ、ああ。すまねえとは思っている」
「それで、こちらからもお願いがあるのです」
「なんなりと言ってくれ。俺にできることならなんでもするぜ」
「実はこれから出かけなくてはならない用事ができましてね。その間、店を預かってもらえないでしょうか」
「えっ、俺がかい?し、しかし……」
「少しの間ならだいじょうぶでしょう。お願いしますよ」
「そうだな……俺でよければ」
「決まりですね。じゃあ明日以降の分の仕込みもやってしまいましょう。手伝ってください」
 そう言って調理場に引っ込むロイド。ヒューはドアを振り返り、次いでマリエルを見てその後に続く。
      ◆   ◆   ◆
 ハーブ園に向かうと、キャシーとヘイゼルが居る。
「ここに居たんだ、キャシー」
「このままじゃヒューが居なくなっちゃう。どうしたらいいんだろう」
「……ねえ、そのクインシーって人に、とびっきりのおいしいパンを食べてもらえばどうかしら?」
 けげんそうにヘイゼルを見るキャシーとマリエル。
「そしたらどうなるの?」
「ヒューにパン作りの才能があるってわかってもらうのよ。そうすればきっと、ヒューを追うのやめてくれるわ」
「……そ、そうかなあ?そううまくいく?」
「それにいくらスジがいいって言っても、ヒューはまだ見習いで、パン作りを全部任されたことはないんだよ」
「あっ、そういえば……ロイドさんこれから留守にするから、その間ヒューが店を預かるんだって」
「えっ、オヤジが?……なんの用事だろ?」
「でも、それはチャンスね。ロイドさんが居なければ、ヒューも自分でパンを作るしかないじゃない」
「でも、ヒューは自分が出ていけば万事解決だと思ってるんだよ?どうやってパンを作らせるのさ?」
「そ、そうだね……う〜ん」
 悩むふたり。だがヘイゼルの瞳がキラリと輝く。
「あたしに、考えがあるわ」